子ども会とは

1.子ども会の意義



 子ども会とは、意図的に地域に組織された異年齢集団であり、その活動を通して個人の成長と集団の成長とを願う社会教育団体です。

 子ども会を定義すると、こんなことになるのでしょうか。しかし、この定義は、子どもの立場から定義されたものではありません。子どもの立場から子ども会をとらえてみるとどのようになるのでしょう。

 近所の子たちと集まって、いろいろと世話してくれる大人たちのもとで遊ぶ会といった感覚でしょう。

 大人の願いは、自分の住む地域を愛する子、自分のことをきちんと表現できる子、やる気のある子、課題を発見する力とそれを解決することができる子など一人ひとりの子どもの成長です。

 子どもの欲求は、解放的、発散的であると同時に仲間と一緒にいたい・何か創り出したいとする気持を満たそうとするものです。この両者に共通のものが遊びのもつ力であると考えます。

 子ども会とは、子どもの遊びたい欲求を地域の子どもたちの中で満たしていく集団です。その集団を支援する大人たちは、遊びのもつ教育力と集団の力で、一人ひとりの子どもの成長を願うものととらえることができるでしょう。

 ここで、地域の子ども集団をとらえてみることにしましょう。

 集団は、自然発生的には異年齢の集団になります。人間が誕生したときは、親と子といった異年齢集団であり、兄弟姉妹関係もまさに異年齢集団です。このきょうだい関係が地域の集団を組織するのですから、当然地域の遊び集団は異年齢集団となります。

 このようにみてみると、同年齢集団は意図的に組織されなければできなかったものです。まさに意図的に組織されたものが学校の学年です。この学校の学年の同年齢集団は、地域では異年齢集団の力-きょうだい関係-により支配されていました。

 ここで、異年齢集団が子どもにどのように影響をするのかについて、簡単にまとめておき、さらに子ども会の意義について深めていきたいと思います。

 異年齢集団は、年上の子にとっては、リーダーシップを発揮する場として、年下の子にとっては、具体的成長の目安を知る機会となっていました。年齢にあった守れる約束ごとなどルールづくりを通して子どもたちは自主的に集団を運営し、遊んでいたのです。この営みの中に、子どもたちの成長があったのです。

 さて、地域での異年齢集団は自然発生的に組織されていたのですが、子ども数が減るとともにきょうだい関係の中で、年下の子を世話をするといった生活観がなくなって地域での異年齢集団は崩壊していったのです。

 先にまとめた子どもたちにとっての異年齢集団の意味と異年齢集団の崩壊とが現代社会の中で子ども会の意義をとらえるもとです。さらに群れ遊びができない現代の子どもたちに群れ遊び文化を継承することの意味も含まれるでしょう。また、地域固有の文化の継承といってもよいかも知れませんが、その土地で育ったものがその土地の文化を伝えていくことを担う使命があるのが子ども会であると考えてよいでしょう。

 まとめると子ども会とは、地域における意図的な異年齢の集団であり、地域固有の文化の伝承と群れ遊びの体験・継承をする活動を通じて、役割や地位等の経験により一人ひとりの子どもの成長を大人が願って組織したものであると定義することができるでしょう。



2.子ども会の目的



 子どもにとって子ども会はなぜ必要なのでしょうか。子どもが子ども会を要求しているのでしょうか。この問いに対しては否定・肯定の両様の答えができるでしょう。この問いは、子ども会が大人の発想にもとづくものであるということを強調すれば否定されるでしょうが、子どもは子ども会ということばこそ使わないですが、子ども会的活動、つまり遊びを媒介として仲間とぶつかりあい自己を鍛える機会を強く求めている事実に注目する時、肯定されます。子ども会は、こうした子どもの要求とその必要性を重視する大人の配慮と合体したものとしてとらえることができるのではないでしょうか。

 それはともあれ、大人が子どもにとって子ども会が必要であると考える理由には二つあります。その一つは、子どもを取り巻く環境、子どもが強いられている生活に問題があります。だからそれらの問題を克服するものとして子ども会が必要だというものです。子どもは本来、自発的・自体的・創造的存在だと思いますが、子どもがおかれている状況は、子どもが持つ良さを発揮し、あるいは促進するのにふさわしいものなのでしょうか。どんなものさしで状況を測るかによって見方が異なることはいうまでもないことですが、現状はあまりにも問題が多いといわざるを得ません。遊び一つをとってみても、遊びは子どもの生命そのもの、成長の何よりの糧であるはずなのに、その持つ良さが十分発揮できない状況に追いやられています。遊びが成立する条件として、遊びにあてられる時間、遊びを展開する空間、遊びを媒介する遊具、共に遊ぶ仲間、そして何よりも子どもが遊ぶ自由を持つことが重要ですが、これらすべてに問題があります。管理され、商品化された遊びはもはや遊びではありません。こうした状況から遊びを解放し、したがって子どもを解放することを、子ども会を通じて実現しようとするのがこの立場です。

 もう一つは、子ども会は子どものたくましい成長に不可欠だとする立場です。前者が家庭や学校や社会に問題があり、子どもの生活の場として不十分であり、その不十分性を補うものとして子ども会に期待するのに対して、この立場は、欠けたものを補うものとして子ども会をみるのでなく、子どものたくましい成長のためには、遊び・仲間集団は不可欠なもので、子ども会の役割・機能を積極的に評価しようとするものです。

 これら二つの立場は矛盾するものではありません。前者は現状では説得力があり妥当なように思います。しかし、欠けたものを補うという立場は消極的であり、子ども会に補助的な役割しか認めないことに通じるのではないでしょうか。その意味で、前者のみを強調することは、子ども会の望ましい発展にとって、偏りをもたらす危険性をはらんでいるともいえるでしょう。

 結論的にいうならば、われわれは、子ども会は子どもの全面発達を保障する場、子どもが自発的に参加し、そこで仲間との活動に喜びを見出し、仲間とともに成長する自己をはっきりと自覚できる、つまり、子ども会の一員であることに誇りと喜びを見出し、生の充実を実感できるような場でありたいと願っています。別な表現をするならば、子ども会は子ども本来の将来の特性が大切にされ、かけがえのない存在としての一人ひとりが生かされ、ともに成長することの喜びを仲間とわかち合う場、個と集団の調和が図られる場でありたいと思っています。

 子ども会の目的を、子ども会が子どもにとって何故必要かということから、望ましい子ども会のあり方についてとりあげてきました。一般的レベルで述べてきたので具体性に欠け、理解しにくい点があったかもしれません。個々の子ども会が具体的にかかげる目標はそれぞれに異なるでしょうが、また異なることが当然なのですが、方向としては上述のものを追求するものでありたいと思います。



3.子ども会の意義と役割



(1)子ども会の特徴と意義

 子ども会の重要性についての認識はかなり一般化しているといってよいでしょう。子ども会づくりは各地で盛んに取り組まれている。一口に子ども会といってもその形態・性格は種々様々です。その代表的なものとして、地域(町会・自治会)子ども会、学校子ども会、施設(児童館・青年館等)子ども会、団体(婦人会・青年会等)子ども会、有志子ども会等をあげることができます。上の分類は設立母体によるものということができるでしょう。これに対して設立動機からも分類できます。行政側の呼びかけ・指導に基づいて上からつくられた子ども会、子どもの遊びが組織化され、子どものニーズにもとづくいわば下からの子ども会がそれです。その他会員数、活動内容、組織・運営等に注目して分類することも可能だと思います。このように子ども会はいろいろ分類され特徴づけられますが、ここで問題としたいことは、こうした子ども会にどんな意義を見出しているかということです。

 さきに子ども会の重要性についても認識はかなり一般化したといいました。しかしその認識には大きな幅があるといわなけれはなりません。つまり共通理解ということからは程遠いように思えます。むしろ対立する見方といってよい程のものです。



(2)大人のための子ども会と子どものための子ども会

 乱暴ないい方かもしれませんが一方の極には、子ども会を大人にとって都合のいいものであるかぎりにおいて評価するという立場があります。社会から影響を受けやすい子どもをそのまま放置しておくわけにはいきません。マスコミをはじめ子どもを害するものはあまりにも多いのが現状です。子どもたちを非行化から守り、健全に育成するために子ども会へ期待するところは大きいのです。子どもを掌握し管理するための集団として子ども会を見る立場がこれです。このようにはっきりという人は少ないかもしれませんが、口では子ども会は子どもが主人公だといいながらも、その見方、実際の指導においてこうした見方をしている大人はかなり多いのではないでしょうか。

 もう一つの極には、子ども会は子どもたちのものであって、子ども本来の特性である自発性・主体性・創造性をより発達させる場、仲間との相互作用・生活を通じて子どもが自らをより個性的なものとして確立していく、同時に仲間集団全体を質的に向上してつく場であって、大人がとやかく干渉すべきものでないという立場があります。干渉ということばには抵抗を感じますが、私は子ども会は教育の場であると考えるので大人の指導はぜひ必要と思いますが、それはあくまでも条件整備、側面的援助に止るべきで、子ども会を支配することが大人の役割とは決して思わない。したがってこの立場は、創造性を考える上で極めて大切だと思います。教育観との関連でいえば前者は注入主義的な教育観に、後者は開発主義的な教育観にそれぞれ対応しているといるでしょう。



(3)子ども会の意義とその役割

 子ども会の意義とその役割を考える場合、理念的にその必要性を云々するだけでなく、歴史的・社会的状況との関連において、もっと端的には子どもがおかれている、強いられている生活との関連で子ども会を考える必要があります。子どものおかれている状況は子どもの成長、発達にとって望ましいものでしょうか。残念ながら否といわなければなりません。以下子どもの本来のあり方、成長を阻害していると考えられる過程・学校・社会のもつ問題点をいくつか指摘してみます。

 核家族化の進行、少子化、電化等に伴う母親の家事労働の軽減は、いわゆる過保護的な状況を生み出し、独立した人格としての成長を阻害し、子ども本来の特性である自発性・主体性・創造性を育てる活動をそこねています。家屋の狭少、密室化は子どもから遊び場を奪い自然との接触を断っています。教育ママは子どもから遊び、自由さえもとりあげようとしています。

 制度としての学校は、その設立の意図からも知的学習が中心におかれることは当然とはいえ、あまりにもそれに傾斜しすぎ、全面発達、人間形成の育成は軽視されています。学校は受験体制に組み込まれ、受験に強い子が量産され、子どもたちの心情は無視されています。そこでは競争志向的態度が強調され、幼い者・弱い者をいつくしみ、仲間を大切にする心よりも、1点でも多くとり仲間を乗り越えることのできる子どもが高く評価されています。家庭教育の学校教育への傾斜、学校の受験準備機関化はそれ自体の問題というよりも、社会に充満している学歴志向的態度の反映であって、学歴主義の社会体制にうまく適応しようとする生存競争の一形態と見ることができるでしょう。都市化・工業化は所得の倍増をもたらしたが、人間の生活を破壊しつつあることも事実で、成長途上にある子どもはその第一の被害者なのです。各種公害によって子どもの健康はおろか生命さえも危険にさらされています。子どもは広場やあき地から閉め出され、一方、遊びの商品化の進行は著しく、遊園地へ行ける子と行けない子、遊具を買ってもらえる子とそうでない子というように、遊びの世界にも差別が見られます。マスコミのもつ娯楽性、刺激性はいろいろと問題にされていますが、創造性との関連でいえば、マスコミの画一化・平均化・受動化の作用は無視できません。

 こうした状況に子どもはおかれているのです。これを放置しておくわけにはいきません。それぞれの領域で問題に取り組み、それを克服する努力を払うことの必要性はいうまでもありませんが、その実現が容易でないとすると、そうした努力と並行して、子ども本来の生活が保障され、子どもの諸特性、これは子どもだから重要であるばかりでなく、人間の生き方として欠かすことのできない、自発性・主体性・創造性を育てる場を造り出すことが緊急の要務です。こうした要求に応えようとするものとして私は子ども会を評価したいと思います。子ども会の意義、その担っている役割はこうした観点から考察されるべきだと思います。

 生物学的存在として誕生した個体が、社会的存在としての人間になることを社会化といいますが、社会化のための機関として子ども会は極めて大きな意味をもっています。もちろん社会化の機関は子ども会だけでなく、むしろ家庭や学校の方が重要かもしれませんが、親のエゴイズムや成績が支配しない子どもが独立した人格として過ごせる世界は、子どもの成長・発達に欠くことのできないものです。さきに遊びは子どもにとって全霊的・全身的活動で成長に不可欠なものだといいましたが、子ども会はこうした遊びを中心とした仲間との生活の場です。言い換えれば、子どもの遊びの組織化、指導された遊びの場が子ども会です。子ども会はこうした遊びを媒介として設立するもので、子どもにとって最も自然な生活の場であり、その中で本来の特性である自発性・主体性・創造性を伸していくことが可能です。

 上に子ども会は社会化の機関であるといいました。誤解のないようにつけ加えておきますが、社会化ということばは、社会の要求する型に子どもをはめ込む、そうした方向での画一化と理解されるおそれがあります。確かに社会的行動様式・社会規範の内面化ということからいえば、社会への同調ということであり、画一化的傾向は否定できないかもしれませんが、ここで強調したいことは、社会化と個性化とは同時的であるということです。社会化と個性化は相反する概念として一般には理解されているようですが、社会との接触なくしては個性化は起こりえないし、個性は集団の中ではじめて意味をもつものです。前にもふれましたが、人間は社会によってつくられるだけでなく、社会をつくりかえることのできる能動的な主体的な存在なのです。集団の中で個性的に生きる存在となること、独自的であることは、ここで問題としている創造性と密接に関連しているといえるでしょう。



「子ども会入門」より引用